Nov. 2000

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 リンゾウ・マミヤがエゾを探検したときに雇ったアイヌのポーター兼ガイドに、後に三百熊右衛門と呼ばれることになる男がいたんだけど、その渾名の由来は、彼が八つのとき、山で出くわした熊 -- 彼の父はその熊に殺された -- を断崖におびき寄せて墜落死させ(目撃者はいない)てから、十八の歳でリンゾウに合うまでに、じつに三百の熊を殺したことからきているのだそうだ。アイヌの文化に三百までの数があったのか分からないが、ともかく、その男にまつわる嘘か誠かわからぬ逸話、武勇伝の数々を、リンゾウはエドに帰ってから友人の戯作者○野△介に話した。○野は、その話を聞いた次の日の昼過ぎには、「  」という小説を一本、書き上げていた。でもって、これがリリースされるやエドの町に大反響を巻き起こす。そりゃもう売れに売れた。となると、それに便乗して有象無象の戯作者が「熊右衛門もの」を書き始める。当時は著作権法なんてないから、みんな勝手に熊右衛門を主人公にして、彼に様々な冒険をさせる。四川の山奥で仙人になったり、義経弁慶とシベリアで決闘したり、ついにはバチカンや月にまで遠征する。 大衆はむさぼるように読んだね。そして「熊右衛門もの」はとうぜん歌舞伎芝居になった。ところがなんと、そこの劇場支配人が熊右衛門本人をエドに呼び寄せることを思いついた。かくしてはるばるエゾからやってきた熊右衛門は、見知らぬ大都会の大舞台で、身に覚えのない自分の役を演じることになる。この熊右衛門、筋金入りの蛮人だが、けして頭は鈍くなく、一年たたずして読み書きを覚えてしまう。そしてなんと自ら多くの「熊右衛門もの」を書くのだ。
 明治の熊右衛門研究家、H野Q氏の論文「熊右衛門、その真実の生涯」によると、彼はエゾの親戚に手紙で次のように書き送っている。
「自分を物語に書いて、こんなめちゃくちゃな嘘をつかなければならないのは残念です。私の主人公は、たった一回の伊勢参りで、本州全土にいるよりも多くの熊や猪を殺しているのです。しかしこれが“熊右衛門もの”に期待されていることなのでしょう」  そして、この一節が公表されたことで、人間熊左右衛門の支持者層は、いっそうの幅の広がりを見せた、とH野氏はつづける。
 だが、すこしでも慎重に資料にあたるなら、これが当時の上方戯作者N沢秋斎の作「西部の熊右衛門」の中で書かれる手紙の一部であることはすぐにわかることである。しかもN沢は一介の三文文士にすぎず、大スター熊左右衛門と直接の交流などなかったことは想像に難くない。ましてや